沖縄スローライフを楽しむ『沖縄暮らし』 セカンドライフは沖縄で
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沖縄の「遊」「食」「住」を楽しむ雑誌『沖縄暮らしvol.4』2009年11月12日(木)発売予定!全国の紀伊國屋書店、有隣堂書店ほか主要店にてお買い求め下さい!!

陶芸の島「沖縄」

沖縄は焼物王国、ヤチムン王国である。(沖縄では焼物のことをヤチムンという)陶芸家の数は、100人を超える。それほど盛んだが、ほとんどは「現代陶芸」ではなく、いわゆる「民陶」と呼ばれる、日常の生活で使われる陶器の作家たちである。
これは、壺屋焼の陶工に影響を与えた、柳宗悦等の民芸運動によるところが大きい。
沖縄での焼物の歴史は、今からおよそ6,600年前九州から入ってきたといわれている土器から始まった。宮古島や八重山では、宮古式土器や、パナリ焼と呼ばれている形の少し違った土器が出現している。12世紀には、奄美諸島の徳之島で焼かれた、カムイ焼と呼ばれる灰黒色の焼物が入ってきて、奄美と沖縄が盛んに交流していたことを示している。このころから、中国陶磁器が入ってくるようになり、朝鮮、タイ、ベトナム、日本からの輸入が盛んに行われた。
16世紀には、琉球王府が「瓦奉行」を設置。中国からの渡来人「渡嘉敷三良」が、瓦技術の製法を琉球に伝えたと言われており、その時の瓦は灰色に焼かれた。現在、読谷の喜名番所には、その当時灰色で焼かれたとされている屋根が再現されている。
琉球家屋や首里城の特徴である赤瓦が焼かれたのは、17世紀後半の1672年に首里城が再建されたことをきっかけに広がったと言われている。このころ、各地に瓦窯が作られた。それが、湧田焼、喜名焼、知花焼、古我知焼、作場焼、そして八重山焼(山田平等窯、黒石川窯、宮良窯、平田窯)などで、窯跡の発掘調査で発見されている。
湧田焼の窯跡は、現在の沖縄県庁所在地の泉崎にあった。1616年、薩摩から連れて来られた朝鮮人陶工の指導によって作られた、灰釉碗や施釉陶器のように釉薬を使った陶器は、その後、上焼として壺屋焼の源流を築くことになった。また、荒焼は釉薬をかけない陶器のことを言い、喜名焼や知花焼の水甕・酒甕・味噌甕など、貯蔵用のものによく作られたとされている。
1682年に、琉球王府は知花、湧田、宝口の窯場を統合し、壺屋焼と総称し、最初は瓦を増産した。その後、日常の雑器としても盛んに壺屋焼は使われるようになり、1904年の日露戦争時には、日本軍の移出用泡盛の容器として、大量の酒甕や酒壺が生産された。当時、壺屋では30基もの荒焼窯があったというから、相当な生産量だったに違いない。
さて、1938年に初めて沖縄を訪れた柳宗悦は、日本民藝協会のメンバー、河井寛次郎、濱田庄司等とともに2年間で4回ほど集中的に沖縄に調査研究に来ている。
柳は、沖縄の自然と人々の暮らしが一体化し、その土地で作られる手仕事の健全さに心を奪われたという。柳にとって沖縄は、民藝の理想郷「美の王国」であったのである。柳は、他の工芸に比べ陶器磁器がより密接に人々の生活に係わっていること、人の心に潤いをもたらし、日々の疲れを癒してくれるのだと指摘した。柳は、民衆的な窯業の中から自在な美が生じ得ると考えていた。壺屋焼について柳は「これらのものを作る壺屋の生活を見れば、純粋であり、誠実なものであるかを見ないわけにいきません」。「そこは、進歩した機械が動いている大きな窯業地ではないのです。ですが、機械がよく生み得ない力を備えているのです。そこには時間に左右されない本質的なものが、豊かに匿れているのです」。と語っている。こうした柳等の民藝運動は、後に人間国宝となった金城次郎、新垣栄三郎、小橋川永昌の「壺屋三人男」という名工たちを生む、きっかけともなったのである。
沖縄では、彼等の訪沖以降、第二次対戦の戦火を受け、壺屋の陶器もほとんど消失してしまったが、戦後まもなく生活必需品である碗や皿、壺が不足したので、壺屋にふたたび陶工が集められ復興が始まった。しかし、安い本土の瀬戸物が出回り始め、また、米軍統治化による食文化の影響で、日常品の食器は洋食器にとって代わり、壺屋焼は米国や本土への観光土産品としての陶器として姿を変えていき、日常使いの器からは徐々に遠のいていったのである。
高度経済成長下では、しばらく忘れ去られていた「日常への回帰」が、近年になりようやく落ち着き、「郷土への回帰」へと社会が変化し始めた30年ぐらい前から、壺屋焼は復活し始める。壺屋が住宅街へと変わっていく中で、窯業は公害問題を抱えることとなり、やがて金城次郎等は読谷へと窯を移すことになったが、今では壺屋と読谷だけでも約100人以上の陶芸作家を輩出する焼物の島へと、沖縄は発展した。
これもそもそも柳が生み出した「民藝運動=用の美」の賜物の一環なのである。